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妃のいない大王

 投稿者:ssn  投稿日:2017年 3月26日(日)02時08分20秒
  倉西先生、初めまして。

「妃のいない大王」というHPを作りました。

以下、その骨子

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崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。

つまり彼らは大王ではなかったのだ。

では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。

それがいるのだ。

①神武→ヒメタタライスズヒメ
②綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
③安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
④懿徳→アマトヨツヒメノミコト
⑤孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
⑥孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王

見事にヒメとトヨの時代。

そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。

邪馬台国とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、今の奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。

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これが私のHPです。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home

ぜひご覧ください。
 
 

阿波・山壱国

 投稿者:橘一吹  投稿日:2017年 1月11日(水)14時37分13秒
  大杉博氏の阿波説を読んでみてください。
山壱国(邪馬台国)が元は阿波(剣山)にあったことがよくわかります。


卑弥呼が死んでから、奈良の御所(ごせ)に奠都したと考えられます。
時代変革(パラダイムシフト)が起きたのでしょう。

剣山を中心とした祭祀と部族長による支配から、崇神による中央集権に
移行したと考えられます。海人族王朝から天孫族への権力譲渡。

阿波までが倭国、近畿から大倭国、その後、大和国に名称変更した。
漢の委奴国王とは、伊都国王のことでしょう。
九州・伊都国(神武)→四国・山壱国(日巫女)→近畿・大倭国(崇神)
へ、王朝移行した。

籠神社に伝わる海部氏系図、すなわち「勘注系図」によれば、
卑弥呼は海部氏6世孫ウナビ姫、壱与は8世孫オトヨ。(桂川説)
 

猿柿合戦

 投稿者:スティーブン / スチヨーパ  投稿日:2015年10月29日(木)23時48分43秒
  ある山奥に猿が住んでいました。秋になって柿の実がたわわに実っていましたが、人里から離れていたので誰も柿を採って食べる人がいませんでした。猿は柿が実り過ぎて勿体ないと考え、思い切って柿を背負って人里まで出ることにしました。猿は人里で珍しがられました。イジメられないように背を屈めて、背中に乗せた柿を取ってくれるようにしました。人々は喜んで、大きくて美味しそうな柿を次々と持ち帰り食べました。もっと喜んだのは猿の方でした。猿は背中と心がとても軽くなって山奥へと帰って行きましたとさ。めでたしめでたし。  

(無題)

 投稿者:スティーブン / スチヨーパ  投稿日:2015年10月12日(月)17時15分24秒
  先日、東京へ行きました。  

書紀の記念について

 投稿者:metabo  投稿日:2014年11月16日(日)21時21分31秒
  倉西先生、お返事を頂きありがとうございます。
さて、先生が、年だけ考慮すればよいというのは雄略以前のことでしょうか。
私は、暦法暦日は、紀年の研究と密接不可分であると考えますが。
たとえば、.推古紀の日食記事、舒明紀十二年春二月戊辰朔甲戌、星入月の記事 2つの天文現象の記事も、現代の天文計算による日付と、元嘉暦により記された月朔干支と日の干支から計算できる日付が一致することから、書紀の記述が正しいことが確認できるのです。
裴世清の,訪倭記事も、記されている月朔干支は608年のものなのです。
また、雄略5年六月丙戌朔は、元嘉暦 の計算では、  461年6月24日となるので、雄略5年が461年であると確認できるのです。
月朔干支と、併せて日の干支を記し日付を表記しているのは、他に三国史記が有りますが、(三国史記の場合は、景初暦)月朔干支が書かれており、使用された暦法が特定できれば、西暦での日付に変換可能なので,紀年を確認する上で、重要なものです。
書紀全体では、錯簡の可能性のあるところもありますが、紀年と日付の関係は整合しているのです。仁徳以前の内容については、極めて不自然ですが、
(但し雄略以前がギホウ暦平朔で記されていると仮定すれば)

暦法によって正月が決まるので年が数えられるのです。

さて、少し質問させてください。

1. 古墳の築造年代は、最近の考古学の知見では

履中稜 応神稜 仁徳稜の順番です。

履中稜は、410年前後

応神稜は、5世紀第一4半期までさかのぼらないとされています。

仁徳稜については、下記の情報により5世紀中葉の築造と考えてよいと思います。

ボストン美術館蔵の鏡など5点 仁徳天皇陵出土の「可能性低い」
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/08/13/kiji/K20110813001405690.html

このことについて、どうお考えでしょうか?

2.神功が崩じたとされる、稚桜の宮は履中紀に命名譚のある稚桜の宮とは別物であるとお考えでしょうか?

3.神功紀の人質を返す話は三国史記の記述を信頼すれば、417年以降となり、神功はその時点で存命していることになりますが、どうお考えでしょう
 

書紀の紀年について

 投稿者:metabo  投稿日:2014年10月12日(日)16時36分38秒
  はじめまして
最近になってこの掲示板の事を知りました。

先生のお説とは異なりますが、書紀の紀年については別の考えを持っております。
私は、書紀の編纂者が、歴史を復元するにあたって本来景初暦で記載されていた月朔干支を、正しく復元できなかったために起因すると考えております。
まだ、矛盾点が多く解決できてない部分が有るのですが

以下は、曲学さんの掲示板に投稿したものです。
ご意見を頂ければ幸いです。

三国史記1年のずれについて
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_16076.html

神功 応神 仁徳 紀年を考える。
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_16527.html

神功 応神 仁徳 紀年を考える。の [16752] に景初暦月朔干支一覧が添付してあります。

 
    (倉西裕子) metaboさま
最近、本掲示板のチェックを怠っており、お返事が遅れましたこと、お詫び申し上げます。
さて、貴方のご説についてでございますが、基本的に、紀年法と暦法は異なるものです。
年月日のうちの「年」の数え方が紀年法であり、「月日」の割り振り方が暦法であることになるのです。
私が、『日本書紀』の紀年の構造につきまして解明いたしましたことは、
年を単位に考える紀年が、どのように構築されているのか、といった点に関するものであり、
暦法は、直接的には関係がありません。
換言いたしますと、『日本書紀』において、月日がどのように割り振られていたといたしましても、
年という単位におきましては、どのような構造となっているのか、という視点からの解明が、
私の研究アプローチとなっているのです。
こうした研究アプローチによりまして、私は、『日本書紀』の紀年が「プラス・マイナス120年構想」のもとで、
多列・並列構造にあることを、既に突き止めております。
従いまして、年単位で考えました方が、より、『日本書紀』の紀年を説明できるというのが、私の意見でございます。
 

「一蔀」の起源について

 投稿者:一読者  投稿日:2014年 4月20日(日)16時46分34秒
  倉西先生のHPなど楽しく読ませていただいています。
実は私の姓は蔀と言います。先生の記事から「一蔀=1260年」という不思議な数を知りました。
以前大学の建築史の先生から君は蔀について調べなさいと言われ、民族建築学の分野で中国の
雲南省のにいる少数民族の高床式住居と蔀戸の密接な関係を知りました。
その後にこの一蔀という数を知りました。
辛酉革命思想とも関係があるようですが、そもそもこの字が使われている起源は何でしょうか?
何か参考になることを教えていただければと思います。
 
    (倉西裕子) 歴史学掲示板のチェックを怠っておりまして、お返事が遅れましたこと、お詫び申し上げます。
さて、讖緯暦運説では、60年という単位を「運」といい、
辛酉革命説の説明となる平安時代の明法家の三善清之の「革命勘文」では、
この60年単位の「運」が21回めぐってくる1,260年は、「蔀」と表現されております。
一方、「蔀」は76年であるという説もあります。
「蔀」は重要な単位年数であるにもかかわらず、残念ながら、
「蔀」という漢字の起源、ならびに、雲南省の少数民族と「蔀」との関係は、わたくしにも分かりません。
しかしながら、漢字が絵文字から発達した文字であることを踏まえますと、
「部」の文字に草冠であることには、意味があるのかもしれません。
 

(無題)

 投稿者:太国  投稿日:2013年10月 1日(火)21時04分58秒
  祝 伊勢遷宮

 神州ハ不滅ナリ

http://しかに

 

雑誌「歴史人」(邪馬台国特集)

 投稿者:太国  投稿日:2013年 5月20日(月)18時23分57秒
  雑誌「歴史人」の内容(邪馬台国)と美人画

今日は書店で雑誌「歴史人」を買い、前のほうを読んでみた。
極めて美麗でなかなか言い線を行っていると、その解説はなかなか好感を感じている。

ただ、いささかアマテラス=卑弥呼説をやや推し進めて記事を構成させているきらいがあった。
ここは安本先生の文なわけだが、後ろのページに都内で催される同説後援での会合(6/16)の誘い広告が載ってたので、そのへんから出版社はこのこういう説の強調に至ったということか・・・?

20ページのアマテラスの風貌は極めて美人としての絵画で載せており、しかもアマノウズメまでもベラボウな美人小絵で掲載されている。w

かように美麗だから読む気分を助長させ、古代史への面白みが増幅されて気分がいい。

同ぺージのアマテラスの美人画だが、本物と比べ両眼がつぶらに画かれており、これは本物に近くしたかったら
もっと細目で左右に真っ直ぐ描き、さらにもう少し瓜実顔にすると本物のアマテラスの超美貌に似てくるだろう。だが今の今までいろいろなアマテラスの姿形絵を見て来たが、似ていない点も多いが、非常に点数がいいと言いたい。

安本先生の用明基点からの統計手法でのアマテラス年代の追及記事は、先生がもともと日神=卑弥呼説を確信的に思いこんだことからの自説に有利に誘導的論述が内々のその確信から行われていってかような論説を造り上げたんではなかろうかと、そう感じてしまう。

アマテラスまでの年代幅をかなり詰めこんで後代方向の実年代に移行させすぎた感じで、えらく無理を直感する。卑弥呼はアマテラスではないことを先生は思い知るべきであろうと想うのだ。
 

源氏物語が語る古代史

 投稿者:友沢幸男  投稿日:2012年 8月12日(日)05時38分52秒
  ミシガン大學の図書館で偶然ご本を拝見して驚きました。私はこちらで永年宇宙線の起源という研究をやって居りますが先生の発見はまるで科学上の発見の様に感じました。素晴らしい事だと思います。昨年日本に帰った時、高千穂町の天の岩戸神社と宮崎市の神武天皇の遺跡を見て参りました。魏志倭人伝の卑弥呼と神武との関係が古代史の鍵だと思ったからです。古代史に詳しくて探索の才能をお持ちの先生が其の内此の問題をお解きになる事を祈って居ります。  

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